2025年04月07日

遠い記憶

母との温もり、いじめを乗り越え、自立への一歩を踏み出した幼少時代
私の5~6歳頃の記憶は、いつも母との温かい触れ合いで彩られています。生活は決して楽ではありませんでしたが、母はいつも私のことを気遣い、「あき坊お腹がすいたでしょう、何か食べようね」と、時にはお蕎麦屋さんへ連れて行ってくれました。温かいかけうどんをすすりながら、母の優しさに包まれる時間は、今でも私の心の奥深くで温かく輝いています。夜の銭湯帰り、二人で見上げた大きな満月。母が「ウサギがお餅をついているね」と呟いた言葉は、幼い私の心に鮮明なイメージを焼き付け、今でもその時の情景が目に浮かびます。寝る前には、私の右手を優しく摩りながら「痛くないか」と声をかけてくれる母の温もり。夜中に、ほころびた私の服を丁寧に縫い直す母の姿は、私の原風景として心に刻まれています。
しかし、小学校3年生になると、私の日常は一変しました。片目であることや火傷の痕を理由にいじめを受けるようになったのです。右手に被せていた布袋を無理やり外されたり、私の容姿を揶揄する替え歌を大声で歌われたりしました。心ない言葉に傷つきながらも、母がいつも頭の火傷を気遣ってくれたこと、そして私が冗談めかして「母ちゃん墨を塗ろ~か」と答えていたやり取りは、苦しい日々の中のささやかな救いでした。
左手しか使えなかった私は、縄跳びや竹馬のような両手を使う遊びはできませんでしたが、一番好きだったのはチャンバラごっこでした。棒切れを刀に見立て、片目片腕のヒーロー、丹下左膳になりきって、友達と夢中で駆け回りました。住まいは市営住宅の母子寮。父親がいないのは当たり前の環境で、同じような境遇の子供たちが大勢いたため、いつも賑やかで、遊び相手には困りませんでした。今思えば、あの頃の遊びは、現代の子供たちには新鮮に映るかもしれません。
そんな日々が続く中、ある夜、母は私を前に座らせ、突然「あき坊、静岡でこれから一人で行ける?」と切り出しました。何のことか理解できず、戸惑う私に、母は今後の手術のこと、そして付き添いの大変さを話してくれました。市役所の方の勧めで、病院併設の施設で生活することになったというのです。
その施設は、私が以前入院していた病院の隣に新しくできた場所でした。手術後、窓から見える同じくらいの子供たちが元気に遊ぶ姿を見て、私も声をかけるようになり、痛みがない時には窓越しに話すこともありました。そのため、施設に行くことに不安はありませんでした。「うん、行くよ」と答える私に、母は何度も「本当に一人で大丈夫?」「いいのね?」と確認しましたが、私は迷わず「うん、大丈夫よ」と答えました。
振り返れば、母との温かい思い出、いじめに耐えながらも遊びに夢中になった日々、そして突然の別れ。幼いながらに経験したこれらの出来事は、私にとってかけがえのない財産です。母の深い愛情に支えられ、困難を乗り越え、そして自立への第一歩を踏み出した私の幼少時代は、喜びと少しの寂しさが入り混じった、忘れられない宝物のような時間です。
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Posted by あき at 08:44│Comments(0)遠い記憶
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